(6)20世紀の椅子に見る機能性と芸術性
19世紀の中頃から、”ゆったりと座る”座り方が流行しました。儀礼的な場においても、必ずしも直立した座り姿勢が求められず、むしろ、リラックスした座り姿勢が奨励されたのです。こうした風潮は、とくにイギリスを中心として、椅子の座り心地を求める願望の高まりにつながりました。豊富な詰め物で膨らんだシートに房飾りのついた椅子がもてはやされました。しかし、20世紀に入って、機械化の進展や製造技術の高度化、さらには新素材の開発などをベースに、椅子のデザインについてますます多様化が進み、椅子に求められる機能と芸術性の問題についても様々な展開が見られることになります。
アート・ファーニチュア(芸術家具)としての椅子
19世紀の末、機械生産による量産化が粗悪品を生み出すという批判を受けて、イギリスのウイリアム・モリスのイニシアティブによる、中世の理想としての職人技への回帰を目指したアーツ・アンド・クラフツ運動が起きたことは前章で触れましたが、ほぼ同じ時期、フランスを中心にアール・ヌーヴォー(新しい芸術)の運動(1873-1913年)が展開されました。この運動の特徴は、機械生産をある程度受け入れると共に、非対称の曲線をもった草花など、ひらめきの源泉を生物の形態に求めたことです。したがって、内容よりも外観や装飾性が重視されました。建築家であるヴァン・デ・ヴェルデが代表的なデザイナーでしたが、椅子は建築様式や室内装飾に合わせてデザインされました。そこには人体との調和という視点はなく、このアール・ヌーヴォー 様式の椅子は座り心地が20世紀で最悪の椅子という評価になっています(1)。
この時期、イギリスでは、チャールズ・レニー・マッキントッシュがグラスゴー派を立ち上げ、ゴシック的で簡潔な垂直線、水平線による緊張とアール・ヌーヴォーの優雅な曲線装飾を取り入れた独自の世界を展開しました。批評家によれば、彼の椅子は、アーツ・アンド・クラフツの頑強な男らしさやアール・ヌーヴォーの曲線による官能表現とも違った、不思議な清新さがあると評されています(2)。
写真6.1ラダーバックの小椅子、C. R. マッキントッシュの作、1903年頃(3)
写真6.1は、彼の代表作の1つであるラダーバックの小椅子ですが、 グラスゴーのウイロウ・ティルームのためにデザインされたものです。彼は、椅子を”空間を定義し分割する構図の中の1つの要素”としてとらえたということですが、座る人のタスク―この場合は、リラックスしてお茶や会話を楽しむ―は念頭にない、いわんや健康な座り姿勢を支持するという椅子の機能などまったく考えられていません。J. ピントは、この椅子は、座ったときに臀部を前方にずらして座ることになり、前屈みで脊柱後湾の姿勢になるので、脊椎の健康上よくないと評しています(4)。
バウハウスの理念とファンクショナリズム(機能主義)
1919年、ドイツにバウハウス派と呼ばれる学派が誕生しました。「すべての物はその本質によって決定される。すなわち、実用的な機能を満足し、もちがよく、安価で、しかも美しくなければならない」というのがその学派の理念でした。機能が定まれば、そのフォルム(形態)は必然的に決まる。すなわち、「フォルムは機能に従う」が合言葉で、ファンクショナリズム(機能主義)と呼ばれました。しかし、J. ピントは、「バウハウス派は椅子の本質的な機能が見た目の美しさにあると理解したようだ」と皮肉っています(5)。
写真6.2は、バウハウスの校長も勤めたミース・ファン・デル・ローエがバルセロナ万博(1929年)のために設計したバルセロナチェアを示しています。金属脚と革張りシートで構成されたシンプルな外観ですが、複雑で伝統的な生産方式が使われており、古代ローマのセラ・クルーリスなど、古代の折りたたみスツールをモデルにしたといわれています。
写真6.2 バルセロナチェア、M. F. デル・ローエの作、1929年(6)
写真6.3は、やはりバウハウスの代表的なデザイナーであるマルセル・ブロイヤーの作品として有名なワシリーチェア。
写真6.3 ワシリーチェア、M. ブロイヤーの作、1925-27年(7)
また写真6.4もブロイヤーの作によるもので、カンチレバーチェアです。これらは、独特の幾何学的形状と当時の製造技術、さらには虚飾の排除による経済性がマッチした結果と思われますが、今日でも高い人気を誇っています。
写真6.4 カンチレバーチェア、M. ブロイヤーの作(8)
しかし、これらバウハウスの代表作も、椅子の機能という視点での評価は芳しくありません。F. ド・ダンピエールは「光沢があって格好がよいが、いかにも座り心地がわるそうな椅子」と評しています(9)。また、J. ピントによれば、「バルセロナチェアもワシリーチェアも、着座したときに座り心地をよくしようとすると、ともに前かがみの腰椎後湾姿勢になるので、健康上よくない。また、カンチレバーチェアは、食事のときに身体を前のめりにすると椅子が不安定になるので、椅子の機能としては問題がある」という評価です(10)。
望ましい座り姿勢を支える椅子
F. ド・ダンピエールは、19世紀から20世紀にかけて椅子の座り心地の追求がおもな欲求になったと記しています。彼女がいう座り心地とは、詰め物で膨らんだシートや背もたれにリラックスしてゆったりとかけたときの心地よさを指しています。19世紀の中頃にはコイルスプリングが採用されるようになって、より安価にこの座り心地を手に入れられるようになりました(11)。
一方、J. ピントは、椅子が本来有すべき機能として次の2つを挙げています。1つは、脊椎の健康にとって望ましい座り姿勢(postural health)を正しく支えること、他の1つは、人が椅子にかけて何らかのタスクを行うときに、椅子がその人の動きに上手く適合すること(task appropriateness)、言い換えれば、タスク・パフォーマンスに寄与することです。彼女は椅子の持つ芸術性を否定しているわけではありません。椅子の審美的な役割も十分評価するが、それはあくまで二次的な機能だという主張です(12)。
彼女は『A History of Seating』のなかで、どのような座り姿勢が腰椎の健康によいのかをめぐって、20世紀の中頃から末にかけて、専門家の間にも2つの対立する主張があり、両者の間で激しい論争があったことを詳細に記しています。一時は、P. C. ウイリアムズらが主張した、リラックスした、前かがみの座り姿勢(slouched posture / kyphosed posture)が座り心地がよく健康上も望ましいとする説が有力視されました。これは、18世紀のルイ15世の時代、ロココ様式の凹面の背もたれの椅子に前かがみの姿勢でゆったりと座ったときの座り心地が快適で、健康にもよいとされて以来、長年にわたって広く受け入れられてきた考え方です。
しかし、20世紀の末になって、A. C. マンダルやR. マッケンジーらが主張した、腰椎の自然の前彎姿勢(naturally lordotic posture)を保つ座り方の方が、前かがみの座り姿勢よりも腰椎に損傷を与えるリスクが小さいことが科学的に証明されました(13)。J. ピントは、この自然の前湾姿勢を保った座り方をしながら、適度な身体の動きを行うことをアクティブ・シッティング(active sitting)と呼んで、脊椎の健康を考える上での重要性を指摘しています。前記の機能性に優れた椅子に座り、タスクをこなしながらこのアクティブ・シッティングを実践するなら、脊椎の健康によく、かつ機能的でもある、ダイナミックな座り姿勢として推奨されると結んでいます(14)。
人間工学に基づく椅子のデザイン
この間の1970年代には椅子のデザインに人間工学が導入されました。この時期デスクトップ・コンピュータの導入によって、オフィス環境が一変します(15)(注1)。健康的な座り姿勢とならんで、座る人がどのような目的でその椅子を使うのか、タスク・パフォーマンスの問題を含めて、オフィス用椅子についての人間工学的検討がなされました。1970年にはA. C. マンダルが、19世紀のパテント椅子のアイディアを発展させて、ランバーサポートの位置を調節可能にし、また前傾姿勢の作業に対応して座面を前方に傾斜させる機構を発表しました(16)。やがて1980年代には、座る人の体型や座り姿勢、さらにタスク適合性に配慮した、複数の調節機構に発展しました。こんにちのエルゴノミクス・チェア(人間工学的な椅子)には、背もたれや座面に限らず、ヘッドレストやアームレストなどを含めて、きわめて高度な調節機構がついています。しかし、F. ド・ダンピエールによれば、「余りの複雑さゆえに、本来の目的である、すべての人に快適な座り心地を提供することを難しくしている」(17)であり、J. ピントも、健康によい座り姿勢の教育と的確な動作解析に基づく調節機構の適正化の必要性を説いています(18)。また、J. ピントは、こうした科学的な知見が、ダイニングチェアやレジャー用椅子のデザインなど、オフィス以外の日常活動の分野の椅子にほとんど活用されていない現実を問題点としてあげています(19)。
おわりに
椅子の歴史を振り返ったとき、F. ド・ダンピエールによれば、「椅子は古代から今日までの社会の営みを目撃してきた。それは人間のドラマにおけるもうひとりの登場人物」 (20) であり、一方J. ピントは次のような内容にまとめています。タスクへの対応を意図して生まれた古代エジプトの椅子は、ギリシア時代には優美なクリスモス椅子に取って代わられたが、その後も、機能性重視の椅子が長く続くことはなかった。中国様式の椅子も、カンバセーション・チェアなど目的特化の椅子も、はたまたパテント椅子も、その都度、ギリシア時代から続く、見た目に美しい芸術性豊かな様式が復活し、これにその地位を奪われるという歴史を繰り返してきた(21)。
その上で、彼女は、「いまや椅子のデザインの黄金時代を迎えようとしている。芸術性が機能性に取って代わるのではなく、科学の進歩が日常の椅子のデザインにも波及し、それが審美的要素とうまく融合して新しい様式を生むに違いない」(22)という言葉で結んでいます。
注1:日本のオフィスにこのような変化が起きたのは1980年代でした。
(完)
出典:
(1)『Chairs: a history』(Florence de Dampierre著、Abrams、2006年)p.310
(2) 同上 p.345
(3) 同上 p.344
(4)『A History of Seating』(J. Pynt & J. Higgs 著、Cambria Press、2010年 )p.211
(5) 同上 p.217
(6) 『Chairs: a history』(Florence de Dampierre著、Abrams、2006年) p.383
(7) 同上 p.380
(8) 同上 P.381
(9) 同上 P. 9
(10) 『A History of Seating』(J. Pynt & J. Higgs 著、Cambria Press、2010年 )p.218
(11) 『Chairs: a history』(Florence de Dampierre著、Abrams、2006年)p.337
(12) 『A History of Seating』(J. Pynt & J. Higgs 著、Cambria Press、2010年 )p.286ほか
(13) 同上 p.296ほか
(14) 同上 p.283
(15) 同上 p.231
(16) 同上 p.218
(17) 『Chairs: a history』(Florence de Dampierre著、Abrams、2006年) p. 11
(18)『A History of Seating』(J. Pynt & J. Higgs 著、Cambria Press、2010年 )p.234
(19) 同上 p.299
(20)『Chairs: a history』(Florence de Dampierre著、Abrams、2006年)p.11
(21)『A History of Seating』(J. Pynt & J. Higgs 著、Cambria Press、2010年 )p.283
(22) 同上 p.300
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