室町時代 その2 雲洞庵と上杉憲実の椅子 1400年代

雲洞庵(うんとうあん)は新潟・南魚沼市にあり曹洞宗に属する禅寺です。仕事で会った三条市の写真家に言わせると新潟では誰でも知っている寺だそうです。

一度目の訪問は、8月で関越自動車道路を六日町ICで降りて八海山を左に見ながら走らせます。

日本の典型的な田園風景の緑の中に目指す寺があります。 後ろは里山(金城山に至る)ですがその後背は奥利根と会津につながる山深い土地です。

二度目の訪問は、3月でした。上越新幹線越後湯沢駅前のレンタカーを借りて大雪の中を走らせました。

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写真2.1 雲洞庵の赤門

雪の参道を行き、庫裡で新井住職に挨拶の後案内されて本堂に続いて後ろにある開山堂に参りました。そこには19代関東管領上杉憲実(うえすぎ のりざね)の像があります。生まれ応永17年(1410年)? –没文正元年閏2月6日(1466年3月22日)?)の室町時代中期の武将です。ちなみに上杉謙信は27代関東管領です。謙信から遡ること約150年前、また前章の佐々木道譽から約100年後の人です。

この像(写真2.2)は佐々木道譽と同じく椅子に腰かけています。お堂のやや端に置かれており目立ちません。

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写真2.2 19代関東管領上杉憲実公

上杉憲実により、本堂が建立されたそうです。その後江戸時代宝永4年(1707)に再建されました。素晴らしい建造物です。住職に尋ねたところ北前船の寄港地として栄えた柏崎港の船大工が宮大工も兼ねており、その大工たちの力作だそうです。(この年宝永地震(ほうえいじしん)が起こりました。)

開山堂は、雲洞庵を初代開山顕窓慶字大和尚はじめこの寺にとりもっとも重要な人をお祀りしている御堂。
正面の最上段には、中央に初代開山顕窓慶字大和尚、右側に初代の師で挿草(草創)開山とされる傑堂能勝大和(楠正成公の孫正勝公)、左側に二代目雲窓祖大和尚を三位一体として木像と位牌をお祀りし、両側の各段には歴住諸大和尚の位牌を安置しております。
また、右下には当庵建立者関東管領上杉憲実公の木像と位牌、その前にはその後継者上杉謙信公の位牌、及び江戸幕府の創始者徳川家康公の位牌を祀っております。

さて今回住職のご厚意で上杉憲実像を運び出していただいた。寸法はやや小さく、高さ77cm 幅 53cmです。窓からの雪景色によく似合います。

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写真2.3 像のサイズ

筆者は、人間工学の観点から、人の姿勢は研究対象の一つです。とりわけ現代人の代表的な姿勢である座姿勢は、研究の中心と言ってよいでしょう。

さっそくそのような眼で見てみましょう。次の写真は、二つの方向から撮影した2枚を並べたものです

横横組み合わせ写真

写真2.4 上杉憲実像 横と横から

椅子は、寺でよく用いられる中国系の曲禄です。特徴は、分厚い座面です。表は畳の様な材で出来ているのでしょう。姿勢はほんの少し前傾気味ですが骨盤も十分立った、いわゆる良い姿勢です。おやと思うことは、足です。中に浮いております。これでは、膝の裏側が圧迫されて長い時間座れない姿勢です。おそらく製作当初は足を支える台があったと思います。いつの間にかなくなってしまったのではないでしょうか。今からでも備えたい気持ちになりました。この像はいつ頃のものでしょうか。住職に尋ねたところおそらく江戸時代であろうが詳細不明とのことでした。彩色が鮮やかなのは、真っ黒だったので20年前に塗り直したのだそうです。

寺の紹介 宗派 臨済宗

縁起によりますと、藤原家の主、藤原房前公の母 千妣尼公亡き後、養老元年(西暦七一七年)、薬師如来をたずさえこの庵を訪れた藤原房前は山を金城山と名付け、母の菩提を弔うため、薬師如来を本尊とする「金城山雲洞庵」を、この地に建立しました。以来、藤原家の尼僧院として律宗に属し、六百年間に渡り栄えることとなります

十三世通天存達和尚は、当地の大豪族長尾家の出身で、兄弟政景が早く亡くなり、一子景勝を引きとって雲洞庵で教育しました。その景勝の家来として一緒に教育されましたのが、直江兼続でした。

住職紹介

新井勝龍さん。駒澤大学名誉教授

メモ(コラム) 雲洞庵案内

境内は広く一万坪あるそうです。水芭蕉が名物です。 水芭蕉は参道、本堂前の池の辺りそして開山堂の周辺に群生しております。

駐車場に車を置き、受付を通ると参道が本堂へと続きます。受付の小屋の向こうに立派な門 赤門があります。

JR上越新幹線 越後湯沢駅より車30分
JR上越線 塩沢駅より車10分
JR上越線 六日町駅より車15分

関越自動車道 塩沢石打インターより車15分